モモモモモ

自意識と推し

芸とガチ恋

たまに、推しがアイドルだったらいいのにな、と思うことがある。

アイドルは夢を売る仕事だ。もちろんアーティストとして応援しているという人もいるが、多くはかっこよさ、可愛さ、その他諸々、何らかの「恋愛対象としての魅力」を感じて応援しているのだと思う。極端に言えば肉欲だ。そして、アイドルはその肉欲を叶える売り方を少なからずしている。男女問わず、グラビアや擬似彼氏・彼女のCM、数えていけばきりがない。要するに、アイドルは恋愛感情を許される存在なのだ。

でも、推しは芸人だ。「笑い」を仕事にしているし、逆にそれ以外は売っていない。

私の推しは特に「芸人」だ。早くから活動し始め、年齢を考えると芸歴が長い。芸人としての進路を早々に決めてずっと活動している。

イケメンだと紹介されることが頻繁にあるが、決してそれを売りにしない。正直、イケメン芸人として売り出す素質は十分だと思う。でもしない。大分前に、「かわいいとかもうよくない?」と言っていた。

しかも、遊んだりもしない。これは、相方が推しを紹介する時にいつも言っているから本当なんだと思う。実際遊んでいる感じは全くしない。

そんな笑いに対してストイックな人に、私はガチ恋しているのだ。ガチ恋に罪悪感を感じる理由は前の記事でもいくつか書いたけれど、一番はこれだと思う。いっそファンと遊んでいたらな、と思うことはあるけれど、そういう匂いがしないところが好きな所の一つだからどうしようもない。

私は推しを純粋なお笑いファンとして応援できない。それがとても苦しい。

いつか、推しのかっこよさ、可愛さを一切感じずに、純粋な心で推しのネタを観たい。絶対無理だけれど。

客と演者の関係

推しは芸名で活動している。

本名にかすっているちょっと変な芸名だ。椎名林檎みたいと言うと分かりやすいかもしれない。本名は、ファンならみんな知っているけど、基本は苗字で呼ぶ。苗字は芸名の一部だからだ。私ももれなく苗字で呼んでいる。

でも、たまに下の名前で呼ぶファンがいる。芸名じゃない本名だ。椎名林檎を「裕美子さん」って呼ぶのと同じ。

私はそれを見る度、腸が煮え繰り返って死にそうになる。ファンが応援できるのは、あくまでも芸名を背負って、芸人として仕事をしている推しだ。推しそのものではない。それなのに無神経に本名で呼ぶ。ハートマークつきで呼ぶ。殺意である。

 

私は、仕事をしている推しとプライベートの推しは別の存在だと考えている。そしてその想いがめちゃくちゃ強い。

仕事をしている推しは、いわば「推していいよ」って許可が出ている存在だ。推しの仕事はファンがいないと成り立たない。だから、私は心置きなく推す。好きだと思うことに何の後ろめたさもない。

この客と演者という関係性はとても綺麗だ。演者は全力でパフォーマンスをする。客はそれを観るためにお金を払って応援する。これが、どちらかが折れるまでずっと続く。切っても切れない間柄なのに、個人として関わることはない。なんて綺麗な関係だろうと思う。私はこの関係が大好きだ。推しを好きという気持ちが百パーセント許される。

でも、個人としての推しは別だ。

仕事をしていないときの推しには、客なんて関係ない赤の他人で、一方的な好きという感情が許されない次元にいるのだと思っている。だから、私は毎日罪悪感を感じている。ガチ恋オタクの私は、個人として推しと関わりたいと思ってしまっているからだ。せめてこの気持ち悪い感情を隠さなければ。なのに、私が憎む同担たちは平気で推しを本名で呼び、好きだとリプを送るのだ。無神経に客と演者の垣根を越えようとする。もはや逆恨みの域だとは分かっていても、憎くて仕方がない。

そして一番悲しいのは、憎しみと羨ましさは紙一重だということだ。本当は私だってめちゃくちゃリプ送りたい。自分で自分の首を絞めている。

でもやっぱり私は、客と演者の、何よりも綺麗な関係性だけは守りたいのだ。たとえうわべだけでも。私は今日も推しのリプ欄をブロックして回る。

ガチ恋に権利はあるのか

めちゃくちゃに大好きな推しがいる、が、たまに「何をもってして推しを好きだと言えるのだろう」と考えることがある。

私の推しは芸人だ。普段はそこそこのキャパの劇場で活動していて、最近色々ときっかけがあり、じわじわと売れてきている。それでも出待ちのファンはいつも10人いないくらい。近すぎず、しかし決して雲の上の存在でもない。正直ちょうどいい。ものすごくちょうどいい距離感。

それに、お笑いのライブってすごく安い。推しが出ているライブは1公演大体千円くらいで、朝から晩の通しイベントでも五千円くらいだ。週3バイトの大学生でも全然通える。しかも、早めにチケットを買えば最前席なんて余裕だ。

ネタをやってる時の推しは世界一面白いしかっこいい。初めは純粋にネタが好きだった。そもそも、推しに出会う前はお笑いの劇場に行ったことすらなかった。それが週2ペースで行くようになり、トークライブにも行き始め、その頃から推しの一言一句、一挙一動見逃せないようになった。いつの間にか完全なガチ恋オタクになっていたのだ。

何をしていても頭の片隅に推しがいる。街を歩いていて偶然出会った時の妄想とか、美味しそうな物を見つけたら推しにあげたいなとか、とにかく四六時中推しのことを考えている。もはや推しになりたい。推しの趣味が筋トレだからジムにも通い出した。もうめちゃくちゃ大好きなのだ。

でも、私は推しのことを何も知らない。

ただのファンでしかない私は、当たり前だけど、推しが仕事として表に立っている姿しか見たことがない。それだけを見て死ぬほど大好きになっている。はたして私には推しのことを好きだと言う権利があるのか?何も知らないのに?

こんなに好き好き言っているけれど、結局私は推しの一番綺麗でかっこいい上澄みだけを見て好きだと言っているのだ。そう思うととてつもない虚しさに襲われる。

別に付き合いたいとかではない。いや、付き合ってくれるなら付き合いたいけど。でも、付き合うとか結婚するとかいう以前に、推しについて知らない部分があまりにも大きい。絶望的に大きい。推しが私の手が届かない所で当たり前に生活して、恋人友人家族って大事な人がいて、仕事のこととか色々考えているのだろう。でも私は絶対にそれらを知ることが出来ない。こんなに大好きなのに不可能なのだ。そう思うと悲しくて寂しくてたまらなくなる。推しについて知らない部分が無くなればいいのにと思って、そう思うからこそ推しそのものになりたい。推しの全部を知りたい。不可能だからこそ、そんな想いが日に日に強くなる。

こんなことブログに書いているけれど、ふと我に返って推しの立場から考えてみると、見ず知らずの女が自分に対してこんな感情を抱いているのってすごく気持ち悪いな、と自己嫌悪に陥る。だから私は、せめて推しにこの気持ち悪い感情を見せないようにしなければいけないと思っている。リプもしない。手紙にも応援しているということしか書かない。だから気軽に好きとかリプする同担が憎くて仕方がない。この話はまた長くなるから、別の日に書こう。

永久に未知の存在、それが推し。でも、だからこそ好きなのかもしれない。