モモモモモ

自意識と推し

客と演者の関係

推しは芸名で活動している。

本名にかすっているちょっと変な芸名だ。椎名林檎みたいと言うと分かりやすいかもしれない。本名は、ファンならみんな知っているけど、基本は苗字で呼ぶ。苗字は芸名の一部だからだ。私ももれなく苗字で呼んでいる。

でも、たまに下の名前で呼ぶファンがいる。芸名じゃない本名だ。椎名林檎を「裕美子さん」って呼ぶのと同じ。

私はそれを見る度、腸が煮え繰り返って死にそうになる。ファンが応援できるのは、あくまでも芸名を背負って、芸人として仕事をしている推しだ。推しそのものではない。それなのに無神経に本名で呼ぶ。ハートマークつきで呼ぶ。殺意である。

 

私は、仕事をしている推しとプライベートの推しは別の存在だと考えている。そしてその想いがめちゃくちゃ強い。

仕事をしている推しは、いわば「推していいよ」って許可が出ている存在だ。推しの仕事はファンがいないと成り立たない。だから、私は心置きなく推す。好きだと思うことに何の後ろめたさもない。

この客と演者という関係性はとても綺麗だ。演者は全力でパフォーマンスをする。客はそれを観るためにお金を払って応援する。これが、どちらかが折れるまでずっと続く。切っても切れない間柄なのに、個人として関わることはない。なんて綺麗な関係だろうと思う。私はこの関係が大好きだ。推しを好きという気持ちが百パーセント許される。

でも、個人としての推しは別だ。

仕事をしていないときの推しには、客なんて関係ない赤の他人で、一方的な好きという感情が許されない次元にいるのだと思っている。だから、私は毎日罪悪感を感じている。ガチ恋オタクの私は、個人として推しと関わりたいと思ってしまっているからだ。せめてこの気持ち悪い感情を隠さなければ。なのに、私が憎む同担たちは平気で推しを本名で呼び、好きだとリプを送るのだ。無神経に客と演者の垣根を越えようとする。もはや逆恨みの域だとは分かっていても、憎くて仕方がない。

そして一番悲しいのは、憎しみと羨ましさは紙一重だということだ。本当は私だってめちゃくちゃリプ送りたい。自分で自分の首を絞めている。

でもやっぱり私は、客と演者の、何よりも綺麗な関係性だけは守りたいのだ。たとえうわべだけでも。私は今日も推しのリプ欄をブロックして回る。