モモモモモ

自意識と推し

ガチ恋に権利はあるのか

めちゃくちゃに大好きな推しがいる、が、たまに「何をもってして推しを好きだと言えるのだろう」と考えることがある。

私の推しは芸人だ。普段はそこそこのキャパの劇場で活動していて、最近色々ときっかけがあり、じわじわと売れてきている。それでも出待ちのファンはいつも10人いないくらい。近すぎず、しかし決して雲の上の存在でもない。正直ちょうどいい。ものすごくちょうどいい距離感。

それに、お笑いのライブってすごく安い。推しが出ているライブは1公演大体千円くらいで、朝から晩の通しイベントでも五千円くらいだ。週3バイトの大学生でも全然通える。しかも、早めにチケットを買えば最前席なんて余裕だ。

ネタをやってる時の推しは世界一面白いしかっこいい。初めは純粋にネタが好きだった。そもそも、推しに出会う前はお笑いの劇場に行ったことすらなかった。それが週2ペースで行くようになり、トークライブにも行き始め、その頃から推しの一言一句、一挙一動見逃せないようになった。いつの間にか完全なガチ恋オタクになっていたのだ。

何をしていても頭の片隅に推しがいる。街を歩いていて偶然出会った時の妄想とか、美味しそうな物を見つけたら推しにあげたいなとか、とにかく四六時中推しのことを考えている。もはや推しになりたい。推しの趣味が筋トレだからジムにも通い出した。もうめちゃくちゃ大好きなのだ。

でも、私は推しのことを何も知らない。

ただのファンでしかない私は、当たり前だけど、推しが仕事として表に立っている姿しか見たことがない。それだけを見て死ぬほど大好きになっている。はたして私には推しのことを好きだと言う権利があるのか?何も知らないのに?

こんなに好き好き言っているけれど、結局私は推しの一番綺麗でかっこいい上澄みだけを見て好きだと言っているのだ。そう思うととてつもない虚しさに襲われる。

別に付き合いたいとかではない。いや、付き合ってくれるなら付き合いたいけど。でも、付き合うとか結婚するとかいう以前に、推しについて知らない部分があまりにも大きい。絶望的に大きい。推しが私の手が届かない所で当たり前に生活して、恋人友人家族って大事な人がいて、仕事のこととか色々考えているのだろう。でも私は絶対にそれらを知ることが出来ない。こんなに大好きなのに不可能なのだ。そう思うと悲しくて寂しくてたまらなくなる。推しについて知らない部分が無くなればいいのにと思って、そう思うからこそ推しそのものになりたい。推しの全部を知りたい。不可能だからこそ、そんな想いが日に日に強くなる。

こんなことブログに書いているけれど、ふと我に返って推しの立場から考えてみると、見ず知らずの女が自分に対してこんな感情を抱いているのってすごく気持ち悪いな、と自己嫌悪に陥る。だから私は、せめて推しにこの気持ち悪い感情を見せないようにしなければいけないと思っている。リプもしない。手紙にも応援しているということしか書かない。だから気軽に好きとかリプする同担が憎くて仕方がない。この話はまた長くなるから、別の日に書こう。

永久に未知の存在、それが推し。でも、だからこそ好きなのかもしれない。